【わがまち加古川60選】行ってみた!加古川城跡・称名寺(しょうみょうじ)編

加古川市加古川町にある称名寺(しょうみょうじ)「加古川城跡」に行ってきました。

加古川城は、太閤秀吉の小姓頭で、賎ケ岳の七本槍(しずがたけしちほんやり)の1人として武名をあげた糟屋 武則(かすや たけのり・加須屋助右衛門)のお城。

糟屋 武則は、天正五年(1577)太閤秀吉が糟屋の館へ立ち寄った折、秀吉について小姓頭となり、賎ケ岳の七本槍(しずがたけしちほんやり)の1人として武名をあげた人物。

加古川城跡は、現在の加古川市加古川町の称名寺の付近一帯を指すそうです。

こちら称名寺。

お寺東側に駐車場があります。

参道を門のほうへ。

門の入り口に加古川城跡の史跡があります。

こちら。「加古川城跡」史跡。

説明の看板が三つあります。

官兵衛の妻 光ゆかりの地 称名寺(しょうみょうじ)(加古川城跡)
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。寺の付近一帯は加古川城跡です。天正5年(1577)加古川市ロで加古川評定(信長軍と毛利軍が闘うきっかけとなった会議)が行われました。また、糟屋(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により羽柴秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上村城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍したとされています。また境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。これは南北朝時代、出雲守塩治高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するため建てられたものです。後に塩治高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩治判官のモデルとして取り上げられ、忠義話として紹介されました。山門を入るとちょうど大木があり、このいちょうの木は昔から加古川の目印でした。

 

城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云う)で、別所長治の幕下であった。天正五年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。後年各所に転戦し、賎ケ岳の七本槍に武名を挙げたという。

(播磨鑑)
加古川城50間(約90メートル)四方
雁南庄加古川村
村より一丁(約百十メートル)西の方とあり、称名寺の付近一帯が加古川城址である。

石幢
当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初基に造られたものと思われる。
幢身高さ 60センチ
径27×18.5センチ

石棺
出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋がしようされている
長さ 131センチ
幅 73センチ
厚さ 27センチ

昭和六十二年三月 加古川市教育委員会

 

わがまち加古川60選 称名寺(じょみょうじ)
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。寺の付近一帯は加古川市ロ跡です。天正五年(1577)太閤秀吉が糟屋の館へ立ち寄った折、当時の城主加須屋助右衛門は秀吉について小姓頭となり、賎ケ岳の七本槍(しずがたけしちほんやり)の1人として武名をあげました。境内には地人がには地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。山門を入ると、いちょうの大木があり、昔から加古川の町の目印でした。

こちらが加古川の町の目印いちょうの大木。おおきいです立派。これは今度は紅葉の時期にきてみたい。

境内はとても綺麗にされていました。

こちら武者の七騎供養塔。

加古川城はどんな姿だったのか気になりました。

こんど図書館で調べてみたいと思います。

称名寺(しょうみょうじ)「加古川市城跡」

  • 住所:〒675-0037 加古川市加古川町本町313